青空色の絵の具

凩 優司

 雲間から差す光は全て、彼女に降り注いでいるように見えた。
 6月の下校途中。
 激しい通り雨が過ぎ、暗雲たる雲は飛ぶように流れていく。
 まるで青空色の絵具を落としたかのように、空は塗り変えられていく。
「……どーしたんだよ、こんなとこでボーっとしてさ」
 奈央は僕の声にハッと振り返る。
 皆が一様に帰路を急ぐ中、彼女は一人だけ足を止め、高台からの景色に見入っていたようだった。
「んとね、世界を見てたんだ」
「世界?」
 奈央は傘をたたむと、うなずいてみせた。
「そう、雨上がりの世界を。私、雨が好きなんだ。雨上がりの世界は、いつもより少しだけ優しいから」
 光が強くなっていく。
 世界に色がついていく。
 曖昧さを許さないかのように、世界をはっきりとさせていってしまう。
 だけど光にあたってきらめく水滴は、その確固さを拒むように世界を曖昧にさせたままで。
 それが優しいと思う理由なのかなって、少しだけ思った。
「優しい景色を見ていると、自分も優しくなれるような、そんな気がしない?」
 ふふっ、と彼女は笑ってみせた。
 凄く可愛かった。
 その笑顔は僕を、ふわふわとした気分にさせてしまって。
 ついつい素直な返事ができなくなってしまう。
「普段……優しさから遠ざかっている人間ほど、そう思うんだろうな、きっと」
「うん?」
 彼女は『ピクリ』と頬を引きつらせる。
「……私ね。雨も好きだけど、傘も好きなんだ」
「なんで?」
 かなり激しく聞いちゃいけないような気がしたけど、僕は聞き返してみる。
「だってほら……」
 奈央は僕に傘の先を向けてみせる。
「雨が降ってない時には、武器としても使えるでしょ?」
 ふふっ、と彼女は笑ってみせた。
 ちっとも可愛くなかった。
 下校中の生徒の姿も、今ではもうまばらになっている。
「……ま、まあ待てよ、落ち着け。今ならまだ情状酌量がついてくるぞ?」
「聞く耳なーし♪」
 誰かに救いを求めるように、僕はそろそろと後ずさる。
 そして射程からようやく離れ、ほっと一息ついた時。
「あまいよ?」
 奈央はほくそ笑むと、傘を思いっきり振った。
「えいっ!」
「うわっ!」
 傘の先から思いっきり水滴が飛んできて、僕の制服を濡らす。
「だあぁ、なんて事すんだ! もう少し考えてから行動しろ!」
「考えてからって……飛び道具はちゃんと技名言いながらじゃないと駄目とか、そゆこと?」
「……妙にマニアックなボケはやめぃ」
 僕はパタパタと制服をはたく。
 小さな水滴が幾つも跳ねる。
 ……まあ日差しも良いし、数分で乾くだろう。
「しっかしよぉ……こんな事ばっかしてるとお前、嫌われるぞ?」
「大丈夫だよ。一人にしかしてないから」
「……大丈夫なのか?」
 奈央はとんとん、と傘の水滴を落としていた。
 どうやら、もう水滴攻撃をするつもりはないらしい。
「大丈夫だよ、なんとなくわかるの。その人はきっと、それくらいじゃ私の事を嫌いにならない。私が多少の事じゃ、その人の事を嫌いにならないのと同じように」
「……へぇ」
 嬉しさが胸の辺りに詰まってしまったようだった。
 僕はただ、気のない返事を返すのが精一杯で。
 奈央は不満げに僕を見る。
「……傘って、他にも使い道あるの、知ってる?」
「どうせ、ロクでもない使い道なんだろ?」
「……そうかも」
 奈央はいたずらっぽく笑ってみせた。
 その笑顔に、僕はつい体を硬くしてしまう。
 また何か企んでいるのではないかと。
「あまいっ!」
 言いながら奈央は柄のスイッチを押した。
 バン! と大きな音を立てて、傘が開く。
 僕は反射的に目を閉じてしまう。
「……え?」
 感触を感じ、目を開けた時。
 そこには奈央の顔があった。
 今までに見た事のない、凄い照れ恥ずかしそうな表情で。
「傘のもう一つの使い道はね……」
 頬が真っ赤だった。
「こうやって二人を隠すこと」
 言われてみると、彼女の傘は二人を包み隠してしまっていた。
「……ま、またね!」
「あ……」
 僕が声をかける前に、彼女は傘を再びたたむ。
 その時の『カチリ』って音が、奇妙なほど耳に残った。
 そして彼女は何も言わずに背を向け、走り出す。
 その姿が角を曲がり見えなくなって。
 ようやく僕は素に戻る事ができた。
 頬が熱いのはきっと、日差しのせいなのだろう。
 照りつけてくる日差しは、雨上がりのむわっとした土や草の匂いを運んでくる。
 その匂いをかぎながら、僕は気づいた。
 いつの間にかもう、夏は始まっていたのだという事に。


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