白い悪寒・生きた証・静かな叫び

秋月 ねづ

 バスルームの鏡が、僕の顔を映し出した。
 鏡の中、僕の頬には薄っすらとピンク色の傷跡が走っている。
 僕は鏡を見るたび、その傷を辿ってみるが、今ではもう痛みもなくて、やがてはこの傷跡も消えていくだろう。
「失敗したね」
 僕はそう呟いた。誰もいないこの家はただ広く感じられて、
 僕にはやりきれない寒気がするだけだった。
 僕は、最近はもう女の事をあまり思い出せなくなっていた。あんなに愛した女なのに。
 僕はこの傷に頼りすぎたのかもしれない、そう思った。

「私は生きていた」
 病室の虚空を見つめ、女はベッドの上で苦しそうに言った。
 女は、痩せほそった女は、もう一度同じ言葉を小さく呟いた。
 女の妹がベッドの脇に座っている。憔悴して俯いている。
 僕は立っていて、白いカーテンの隙間から隣のビルを眺めていた。

「ねえ」
 と女は僕に言って、妹も顔を上げた。
 僕は振り返ってゆっくりとベッド脇の椅子に座った。
「私を忘れないでいてくれる?」
 女は弱々しく僕の膝に手を置いた。女の妹はまたうつむく。
「ああ」
 僕は頷いた。
「みんなが私を忘れてしまったら寂しい」
 女はそう言って、手を自分の額に当てた。
「みんな、ずっとお前の事を覚えてるさ。お前のことをいつも考える。なあ」
 僕は女の妹に目を遣り、妹は姉の手を握って肯いた。
 女は妹の手に自分のもう一方の手を重ねる。
「きっと、私がいたことなんて、すぐに忘れてしまう。
 私が居なくなったら、私の生きていた隙間を皆がちょっとずつ詰めて埋めてしまう。
 私がいた場所はすぐに無くなる。まるで、最初から無かったみたいに」
 女は肯く。目を閉じて苦しそうな表情をする。まるで何かを苦労して飲み下すようだ。
「ええ。あなた達は私の話をするわ。最初は毎日、そして三日置きになって、
 やがて一月毎に。でも最後には忘れてしまう。それはそういうものなのよ」
 僕はため息をついた。
 そして傍にあった果物ナイフを取って、女に握らせた。
 それから女の手を握って僕自身の頬を耳から口に向かって一文字に切った。
 僕は痛みと共に、自分の頬から赤い血が落ちるのを見た。
 血は滴りシーツを濡らしたので、僕は身を引いて白い布団を汚さないようにした。
 血は僕の顎を伝って、僕の服と薄緑のリノリウム張りの床に染みを作った。
 女の妹は椅子を蹴って立ち上がり病室を飛び出して行って、
 僕は微笑んだ。
「これで毎朝、ひげを剃るときに君を思い出すよ。僕が死ぬまでは、ずっと」
 僕がニッコリと笑って、そう言うと、女は驚いた顔をしたがやがて目を閉じた。
「馬鹿ね。そんなことして。私はちっとも喜ばないわよ」
 女は呆れたように笑った。そう言いながらも、女は少しだけ満足そうな顔をした。
 女のそんな顔を見るのは本当に久しぶりだったので、僕は嬉しかった。
 僕は顔を向けて、入り口の洗面台の鏡を見た。
 そこには血だらけの男が一人黙って立つ。その傷は女が生きた証だった。

 バスルームの鏡の中で、僕はもう一度傷跡をなぞった。
 もうすぐこの傷はほとんど目立たなく消える。
 瞬間、女が手を引いた為に傷が浅くなってしまったからだ。
 その後、僕は麻酔をかけられ傷を縫われて、朦朧としたまま病室に戻ると女はもう居なくなっていた。
 僕は女を捜して病院を彷徨い、そして親切な誰かに案内されて、見つけた。
「失敗したね」
 僕はもう一度呟いた。この傷のせいで僕は女の想い出をほとんど失ってしまった。
 この傷に頼るせいで、もっと大切にすべきだったことをないがしろにしてしまったのだ。
 この傷のせいで、女のすべての想い出は恐るべき早さで色褪せた。
 そして女を思い出す最後の縁だったこの傷まで、もうすぐ消えてしまう。

 その時、鏡を覗く僕の白いYシャツの背後から手が差し伸べられ、
 僕は彼女の体温を感じた。彼女が来たのだ。
 僕が振り返ると、彼女は微笑んだ。そして僕の傷を暖かい手で撫でた。
「もう少しで消えるね」
 と嬉しそうに彼女は言った。彼女はもう、明らかにこの傷を疎ましく思っていた。
 僕らが女の話をすることはもう無かった。すべては女の言う通りだった。

 僕は後悔していた。
 もっと深く、噛み締めた奥歯に届くほど、一生消えぬほどの傷をつけておけばよかった。
 それと同時に、全く傷などつけるべきではなかったとも思うのだ。


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