ドッペルゲンガー side:B

KENSEI

「くまのみどう?」
 隣の席で半身を伏せていた男が飛び起き、私の方を向いた。
 なにか妙な振る舞いをしてしまったのだろうか。不安が一瞬よぎる。こういうときは曖昧に微笑すれば、事は大きくならない。事前に教えられている。
「くまのみどう、ひかるっていうの。よろしく」
 男は私をただ見ていた。前の席の女が小声で知り合いかどうが尋ねてくる。知らない、と答えると女はわずかに不快げな表情になり、さらに親しげな調子をつくり、男を無視しようとした。
 どうやら“熊埜御堂”という姓は、日本でそうありふれたものではないらしい。日本には姓がたくさんあると聞いていたが、そうでもないのだろうか。
 横の席の男……目線を逸らさずにいる。意識を男に向けたまま、女の話を、まるで興味深く聞いているかのように、うなずく。女は、自分がいかに恥ずかしがりやで、頭が悪いかを、口の中で喋っている。ただ音声が途切れるのを待って首を縦に動かす。
(ともかく、なんでもクラスメイトと一緒に行動しなさい)
 日本語教師はそう強調した。
 この、中身のない会話だけを、ひたすら繰り返す女。会話ではなく、自分が話したいことを、聞かせたいだけの女。好都合だ。この女と当面は行動をともにすることとなるだろう。私は、適宜相づちを打ちながら、女の身の上を整理していった。いつか役に立つ。
 男……まだ見ている。警戒を怠るな。ただ、いつも男たちが放つ視線とは、少し違うような気がした。
 私は、このクラスに、この高校生という集団に、溶け込まなければならない。寸分の疑いも持たれてはならない。事前の学習は完璧にこなしたはずだった。しかしながら、失敗というものは、わずかな狂いがいくつも重なりあい生じてしまうものだ。そこには偶然がつきまとう。ならばその始点となる綻びを、最初から生起させないことが重要だ。そのためには学習した内容を徹底して実践することが必要となる。どれほど完璧に学習をなそうとも、実践において徹底できなければ、いつか計画は破綻する。
(この“徹底”こそが生死を分けるものだ)
 大丈夫だ。油断などない。
 担当の教員が現われ、教室が静かになる。教員は自己紹介した。クラス全員にも同じように名を名乗り、一言を添えろと強要する。
「一言ってなにを言えばいいんですかー?」
 後方で質問が上がった。
「なんでも。好きな食べ物でも、趣味でも、中学のときの部活でも」
 教員が返答すると、クラスが急にざわめき始めた。ふと、私も考えた。私に好きなものなどあっただろうか。事前に用意されている回答ならあった。教員が開始をうながした。順序よく立ち上がり、頭を下げ、少し早口で、みな自分のことを語る。名前と顔を一致させておく。さらに全員の趣味を記憶していく。会話の糸口となるだろう。
(例外なく、一流の仕事を行うものは、社交家だ。どんな国の人間でも、好印象を抱いた人間は、逆の偏見をもって判断する)
「鈴木隆行です」
 隣の席の男だった。
「趣味はサッカーです」
 男は、そのとき私を一瞥した。目が合う。なぜ私を見る。男は周囲を眺めるような目つきに戻り、先を続けた。
「高校でもサッカー部に入るつもりです。よろしくお願いします」
 男は静かに着席し、その後ろの生徒が立ち上がる。順番が進む。前の席の女が頬を染め、うつむいて笑みを浮かべる。なんどか顔に手を当て言葉をつまらせながら、名乗り、一言を添えた。急いで座ると、私を見て無邪気に微笑む。緊張したことを、かわいらしく伝えたいようだった。曖昧に微笑み返し、冷静であることを脳裏で確認する。ついに私の番となった。立ち上がり、クラスを見渡す。気の抜けた、幼い笑みが、どこにもかしこにも並んでいる。
「クマノミドウヒカルといいます……」
 名乗っただけで、なぜか教室に感心したようなうめきがひろがった。
「趣味は映画を観ることです。一年間よろしくお願いします」
 映画の題と感想を、尋ねられた場合の回答も、もちろん準備してある。頭を下げて腰をおろすと、隣の男の視線が、また私に貼りついていた。なにを考えているのだこの男は。日本人は気が弱く、対立関係を忌避すると聞いていたが、ここまで露骨に見つめられるのは、その情報に間違いがあったからだろうか。
 クラス全員の自己紹介が終了すると、教員は明日の予定と、授業に関して購入する備品の説明をし、解散となった。
 女が、自宅の位置を聞いてくる。帰る方角が違うと、ひどく残念がった。駅までの道のりを一緒に歩くこととなった。その間、ひたすら現在の社会で流行している、最新の情報を入手していく。高校生は主に、音楽を聞くことを趣味とするとの調査結果が出ている。好きだというロックグループのCD数枚を貸し出す約束を取り付け、駅で別れた。収穫だ。
 居住地は、高校から20分ほど列車に乗った土地にある。この列車をはじめとする交通網について、予備知識は充分にあったものの、実際に自分が利用するとなると、驚嘆は隠せなかった。なんという精緻さ。そして清潔さだろう。これもすべて“搾取”のなせる業か。道も、目にする道すべてがアスファルトで舗装され、ほとんどゴミも落ちていない。私の生まれた土地と天と地ほどの差がある。
 列車を降り、駅を抜ける。居住地は、日本に在住する同胞が用意してくれたものだ。日本の一般的な“一戸建て”だそうだが、これだけの家屋を一般的な人間が手にすることのできるこの国は、身に余るほどの繁栄を享受している。
 ドアを開いた。玄関で靴を脱ぐ。廊下を進むと、ソンが立っていた。やせた、中年の男である。双眸が針のように細い。
「帰還したのか」
「ハッ、帰還いたしました」
 敬礼し、そのまま返答する。
「尾行等はなかったか」
「ハッ、ありません」
 私は見つめられていた。私はこの男が、私に欲望を覚えていることを感じていた。だが、その欲望は控えめで、幹部や、かつての同僚がむき出しに突きつけてきたものより、よほど好感が持てた。
「本日の報告を聞く」
「ハッ」

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