存在としての私

秋月 ねづ

「助ける必要はないのに」
 夕暮れ時、私は商店街のテレビを立ち止まって見ながらそう呟いた。ブラウン管の中では、生まれたばかりのベンガルトラ(それは白いネズミのように見えた)を必死で揉みほぐす獣医の姿が映し出されていた。
 白いネズミはぐったりとして、獣医にマッサージされていたが、暫くするとピクピクと動き出した。
「ああ、よかったわねえ」
 いつの間にか、隣に立ち止まり同じようにテレビを見ていた主婦がそう言い、私に笑いかけた。
「ええ」
 私は主婦に向かって、そう微笑んだ。そして呆けたように人の顔を見る主婦を残し歩き始めた。
『よかったのかどうかなんて誰にも分からない』
 私はそう思って足を速めた。急に商店街の人ごみにいるのが苦痛になったのだ。スピーカーから流れる音楽も気に障る。
『死んでいたほうが良かったという場合だってある』
 私も未熟児として生まれた。まだ若い母の命と引き換えにして。佑子が生まれ、母が亡くなったのを知った父は、病院で人目を憚ることなく泣き叫んだらしい。
「子供なんて要らない。子供なんて要らないから。祐美子を返してくれ。俺に必要なのは祐美子だけなんだ」
 そして、父は病んでしまった。

 病院へ向かう坂道からはこの街が見渡せる。私がもうすぐ通うことになる高校も見える。私は立ち止まって、花と父の着替えをレンガの歩道に置き、ガードレールに両手をついた。
 ここに来るたびに、私は憂鬱な気分になる。父を見舞いに行きたくはない。叔母も行かなくてもいいという。だけど、私しか行く人がいない。いや、それは嘘だ。叔母は働いていて忙しいが、何日に一回かなら行くことが出来る。また誰かを雇って世話をしてもらうことだって無理ではないはずだ。
 結局、私は父に会わずにはいられないのだ。何度、傷つけられたとしても。

 病室に入ると、ベッドで体を起こして看護婦さんと談笑していた父は、両手を広げて私を迎え入れた。傍に行った私を強く抱きしめて父は耳元で囁く。
「来たな祐美子」
 私はそれを聞くたびに、胸を抉られたような気分になる。二年ほど前から父は私を母と取り違え始めた。皮肉なことにそれから父の病状は改善しつつある。私の小さな頃の父はもっと痩せて落ち窪んだ目をしていた。
 私の記憶の最も古いとき、父は私を叔母の子供だと思っていた。叔母の未婚の子供だと思って、叔母に説教をしていた父を私は覚えている。
 父の胸に抱かれると私はいつも泣きそうになる。父が抱きしめている相手は私ではないのだ。私は父の背中をトントンと叩いてやっと離してもらった。
「今日、久しぶりに泳いだよ。ここにはプールがあるんだ」
 と父は笑った。看護婦さんが私の傍にきて座った。
「飯岡さんのフォームはとてもキレイなのね。学生の頃、水泳をやってらしたんですって?」
 私は頷いて笑ったが、私は父の泳ぐ姿を見たことが無かった。
「ここは暇だし、最近は調子も良いから、ちょくちょく泳ごうと思ってるんだ」
 父はそう言って私の指を握った。
「祐美子、今日はゆっくりしていけるんだろ?」
 父は私の目を覗き込んでそう言った。
「もう帰らないとダメなの」
 私がそう言うと、父はため息をついた。
「お前んとこの親父さんはうるさすぎるよ。まあ、まだお前は高校生だしな、早く卒業してくれよ。そしたらずっと一緒にいられるんだから」
 父はそう言って嬉しそうに笑った。私は作り笑いを浮かべながら立ち上がった。事情を知る看護婦は私の肩を抱いて、労るように私を外へと連れ出す。私は看護婦に頭を下げて病院を後にした。

 家に戻り私は、洗面所の鏡の前に立つ。
 私はこの2LDKのマンションに三年前から叔母と一緒に暮らしている。父方の祖母が亡くなったのを機に、父の実家を売ってしまったからだ。それで今は父の入院費を賄っている。
 鏡の中の自分を見ると、自分でも母に似ていると思う。母が亡くなった年は十八歳だった。あと、三年で母の年に追いつく。そして私は母を追い越して年を取る。それまでに父の病気は治るのだろうか? 私を佑子として認めてくれるのだろうか?
 時折、父と話していると、自分が母に、祐美子になったような気分になることがある。父が私に笑いかける顔は恋人に笑いかける顔そのものだ。私の手を握るときも。
 本当は、私は父の愛する祐美子で、病気なのは私で、将来は佑子を身ごもるのではないだろうかと思うこともある。そうだったら幸せなんじゃないかな? と思うこともある。父は三十四歳で私は十五歳だからちょっと年が離れすぎてるけど、父のような男性とだったら結婚してもいいなと思う。私は佑子として、子として父の愛情を受けられなかったから、父が父であることをうまく理解できていないのかもしれない。
 私は鏡に触れて、自分が自分であることを確認しようとした。鏡を見たって確認は出来なかった。私が佑子であることを確認できるのは、叔母といるとき、クラスメイトといるときだけなのだ。私を佑子と呼んでくれる人と居ることが、私が自分を確認できる唯一の手段なのだ。
 一昨年、私は意を決して、縁が切れていた母方の祖父に会いに行った。今まで会ったことはなかった。
 そこは海の近くの町だった。私は海沿いの道を歩き教えられたとおり、母の家に行ってみた。祖父は庭に立っていて、私を見たとき呆然として、私を「祐美子」と呼んだ。それを聞いて私は怖くなって逃げてきてしまった。それは丁度、父に祐美子と呼ばれ始めた頃だった。
 私は自分の頬をなでてみた。鏡の中の私も頬をなでた。その時、ガチャリと音を立てて、玄関のドアが開いた。私は洗面所を走り出て、玄関に滑り込んだ。
「おっかえりー」
 私は叔母のカバンを奪い取る。
「ただいま。やたら元気だね。兄ちゃんのとこ行ったのね」
 叔母は私の頭を叩いて部屋に入って行った。
「まだ、佑子のこと祐美子さんだって思ってるんでしょ?」
 叔母は水道で手を洗いながらそう言う。
「まあね」
 私はそう言って笑った。
「どうしょもない男だよ。兄ちゃんは。狂うほど女を愛する男なんて見たことない」
 でもね。と叔母はテーブルに座って煙草に火をつけた。
「ウチの一族は恋愛に狂うんで有名なんだ」
 と叔母は憂鬱そうに言った。
「私も人のことは言えない。私は男を包丁で刺したことがあるんだ。死ななかったけど、あの感触が嫌で結婚しなかったようなものだもの」
 叔母はそう言って笑ったが、結婚しない理由はそれだけではない。私が障害にならないわけはない。一昨年、叔母はお見合いで結婚寸前までいったことを私は知っている。私が母方の祖父の家から泣きながら帰ってきた時、叔母は怒り狂って縁談を破棄し、私に母方の祖父の家を教えた親戚の家に怒鳴り込んだ。全部私の為だ。
「聞いてる? あんたにもそんな血が流れてるんだから気をつけなきゃだめだよ」
 叔母はそう言って私は笑った。

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