半魚人(中)

KENSEI

 山村さんから店に電話がかかってきたのは、その日の朝で、次のアルバイトに交代する寸前のことだった。急に代わってもらった礼がしたいので、店の近くにあるファミレスで待っている、と言われた。取り立ててやることもないぼくは、徹夜明けの気だるい空気の中、自転車でファミレスへ向かった。山村さんはぼくの顔を見ると、大きく手をあげて、せわしなく小刻みに振った。正面のイスに腰を下ろす。数回交代したことはあるが、こうして向かい合うのは初めてだった。山村さんは整った目鼻立ちをしていて、NHKの連続ドラマで観たことのある、なんとかという俳優に似ていた。でもつねに微笑しているせいか、目じりはずっと下がって見えた。茶色い髪は無造作にはねていて、無精ひげものびている。タバコに火をつけて、三日月の形の口から煙を出す。
「悪かったねえ、急に代わってもらって」
 ぼくは来てみたものの、こうして大人の人と二人きりになると、なんだか息苦しかった。タバコの煙が、口の中に絡み付いて、接着剤みたいにくっついてしまった。
「せっかくだからなんか頼もうか。なに食べる?」
 山村さんはメニューを開いて、ぼくに差し出してくれた。食欲があるわけじゃなかったけれど、辛いものなら多少食欲もわくかなと思って、カレーピラフを指で差す。山村さんは大きく笑顔をつくって、店員さんを呼んだ。次々と料理がオーダーされて、ほどなく山村さんの前には、昼前だというのにビールのジョッキが置かれた。ぼくにちょっと掲げてみせて、一気に半分近くをガブリと飲んでしまう。うまいなあ、と、まるで悔しいみたいにつぶやいた。
 ぼくは山名さんが酔う前に今朝の出来事を伝えなきゃ、と思った。そのためにこうして来たようなものだった。
「あの!」
 ようやく言葉をつくることができて、つくったあとつばを飲み込んだ。喉が渇いていた。
 山村さんは大きく目を見開いて、ぼくを心配そうに見つめた。
「どうした?」
 ぼくはひっかかっている声を、ゆっくりと搾り出した。
「……あの、明け方、女の人が来て……山村さんを探しに」
「どんな人?」
「長い、髪の……きれいな女の人でした」
「ふーん」
 山村さんは唇を大袈裟に尖らせて、首をゆすってみせた。あまり興味はなさそうな態度だった。ぼくは自分が大事なニュースを抱えていると信じていただけに、なんだか気恥ずかしさが急に浮かび上がってきた。
 山村さんが気を取り直したように笑顔を見せる。同じ時間帯で働いているぼくならわかるだろうと、深夜に来る常連客の悪口を言い出した。あいつは人間として失格だ、とか。話を聞いているうちに1杯目のジョッキが空になり、2杯目のビールが注文された。新しいビールが届くのと同時に、料理もやってきた。山村さんはステーキを頼んでいて、ぼくの前にはカレーピラフが置かれた。続いてサラダやビーフシチューやピザやスパゲティがテーブルの隅から隅に並べられる。驚くぼくを尻目に、山村さんはおおはしゃぎでステーキへナイフをいれていく。ビールと一緒にうまそうにステーキを食べ始めた。
 それからの山村さんはさらに口数が多くなった。すごい勢いで食べて、すごい勢いで話した。山村さんの話は面白い。店に来たフィリピンパブの踊り子さんたちに集団で「オニイサン、イイオトコネ」と囲まれた話とか、毎晩来てはおつりをもらうとき、山名さんの手をゆっくりとなで、瞳を見つめる男性がいるとか。あれは怖い、と大げさに山名さんは震えてみせた。本を整理していたら、おしりをなでられたこともあるのだという。ぼくもその客を知っていて怪しい仕種に注目していたので笑った。
 つい先日は中学生の女の子から、ラブレターをもらったのだという。特徴をきくと、ぼくも知っている女の子だった。山村さんがお釣りを手渡すといつも、赤面していたのだという。ぼくのときは決して直接お釣りを受け取ろうとしない。だから仕方なくカウンターへ取りやすいように重ねて置く。ぼくは脂っぽいピラフのウインナーをフォークで転がしながら、少しばかりその子のことをうらんだ。
 料理は山村さんの胃袋に粗方が詰め込まれた。山村さんはソファに両肩を預け、満ち足りた表情でタバコをふかしている。ぼくは半分ピラフを残し、ジンジャーエールをすすっている。
 思い出したように山村さんが半身を起こした。
「あのさ、ちょっと金貸してくれない?」
 ぼくは話についていけずに、思考が停止してしまった。
「1万……いや、5千円くらい。いいかな?」
 5千円くらいなら財布の中に入っている。ぼくはわけもわからず財布から札を抜く。「ありがとう。ありがとう」山村さんは拝むようにして受け取る。そのまま立ち上がると、迷うことなく出口へ向かい、出ていった。
 ぼくは、見送っただけだった。

 山村さんが店の金庫の金を全部盗んで消えたのは、その日の夜のことだった。

to index