半魚人(上)

KENSEI

 ぼくはずっと当たり前のことが当たり前にできないのではないか。そう信じてきた。たとえば恋人をつくる。たとえば仕事を持つ。たとえば家庭を持つ。たとえば子供をつくる。人生という文脈のなかで自然と語られるドラマは自分とまったく縁のないものだろう、と。
 なぜならぼくは半魚人だからだ。
 半魚人狩りをされたことはあるかい? 夜のプールに叩き落され、息を吸おうと水面へ顔を出すたびに力加減のないモップの一撃やバケツから撒かれた水が襲ってくる。喉が焼けるように痛くて、頭が三倍にも膨らんだような気がして、肺に無理矢理水が流れ込む。
 次の日からぼくは中学を休んだ。
 自分の顔を必死に鏡で見つめるときがある。細い目。つぶれた鼻。突き出て厚い唇。おせじにも美男子とは言えないが愛着のある顔だ。誰だったろう。あだ名をつけたのは。あの日からぼくは半魚人だった。人間ではなかった。
 ぼくは部屋に閉じこもった。昔読んだマンガを読み返し、やり残していたゲームをクリアした。深夜に全身を濡らして帰宅した息子へ、両親はなにも言わなかった。二ヶ月ほどたって時間をやり過ごすのに厳しくなってくると、図書館へ通うことにした。普通の中学生が帰宅する4時ごろを狙って町へ出る。ひどく近所の視線が気になった。目ぼしい本を抜き取ると足早に図書館を出る。お年玉の残金を銀行でおろして書店で新刊のマンガを買う。書店ですれ違う制服姿の女子が眩しかった。
 そんな生活が倦むこともなく1年続いた。ただひたすら知識を吸収し、ただひたすら自分の世界に潜った。いままでの自分について。人間について。世界について。小説らしきものの断片を書き散らかしたこともある。無条件に自分を愛してくれる女の子の話だったり、世界を救う無敵の勇者の話だったり、一転して殺人鬼の話であったりした。
 そんな生活に区切りをつけようと考えたのは、他愛もない物欲のせいだった。パソコンがほしくなったのである。さすがに何もせずにいるぼくを、黙って養ってくれる両親にねだるのは気が引けた。そのころは完全に昼夜が逆転し、眠ることも、目覚めることもただの苦痛でしかなかった。パソコンは口実なのかもしれない。
 なんにせよぼくはアルバイトを始めることにした。一つだけ問題があった。ぼくはまだ就労年齢に達していなかった。仕方なく履歴書に歳をごまかして書いた。生活サイクルを考えればもっとも時給が高いのは深夜だ。ぼくは深夜にしぼってアルバイト雑誌をめくった。
 自転車で20分ほどかかる私鉄駅前で、運良く24時間営業のマンガ喫茶が、募集の広告を出していた。店によっては一人で仕事をすることができる。これほど自分に相応しい仕事はないと感じた。面接はあっさりと終わり、次の日からぼくは深夜のシフトで働き始めた。
 夜明けの美しさを、ぼくは初めて知った。

 いままで闇の上で店内を映していた窓ガラスが、青く染まる街並みを透かして見せる。サイフォンにコーヒー豆を詰めるぼくの背中でドアが開く。明け方に客はみな去っていく。これから昼近くになるまで、ほとんど客はいなくなる。ぼくは好きなマンガを物色しながら過ごすことができる。あと1時間ほとで交代が来る。
 ぼくは背中のあたりがさすがに凝ってくるのを感じていた。今夜は急にオーナーから家に電話が入り、休みが取り消されてしまった。とくにやることもないので引き受けたが、さすがに10日も連続で働けば、多少は疲れる。激しくあくびをしていたら、店内をうろついていた女の人が、噛み付きそうな勢いでぼくに話しかけてきた。
「山村さんは?」
 ぼくは奥歯のあたりがむずがゆかった。きれいな女の人には慣れていなかった。しゃべれずにいると、女の人はいきなり大声を出した。
「山村さんはどこって聞いてるのよ!」
「な、なんか体調悪いみたいで……変わってくれって……」
 唐突にきびすを返すと彼女はドアの向こうへ去った。翻った髪の香りが頬のあたりを心地よく包んだ。ガラス越しに背筋の伸びた後姿が遠ざかっていく。美しい声の余韻と、まぶしい朝の光を残しながら。

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