方程式

KENSEI

 夕暮れの空が広がる屋上に、人影があった。ひとりになるつもりで上がって来たのだが。
 昼間は上着の必要がないのに、日に日にこの時刻の寒さは増している気がした。ゆるやかに風が通り過ぎると、シャツの布地に冷たさが滑りこむ。町はもう夕闇に沈みつつある。もうすぐ大気は青さと透明さを満たし、すべてを闇と静けさで包みこむだろう。
 赤い小さな光が、揺れている。金網をつかんで夕景を見る、大きな後ろ姿。深沢だ。身長は170を越え、体重も100キロはあるだろう。こんな体格で、新聞部員というのが苦笑を誘う。俺が足音を立てて歩み寄ると、あわててタバコを後ろ手に隠したが、俺だとわかると思い切り煙を吸いこみ、吐き出した。
「なんだよ。またひたってたのか」
「うるせーよ」
 俺が声をかけると、深沢は煙交じりの返事した。深沢は最近、取材でほれこんだ弓道部の先輩に、積極的に仕掛けてあっけなく自爆したのだ。
 手を出して1本くれと示す。胸ポケットからマルボロのパッケージを抜き、
「いいのかよ。優等生がタバコなんか吸って」
 と差し出してくる。
「記事にするか?」
 俺の言葉に、びっくりしたように深沢が返す。
「しないよ」
 ライターも借りて、火をつける。たった一服で、背中が緩んでいくのを感じた。どれだけ俺がさっきまで、気を張っていたのかがわかる。
「俺は優等生なんかじゃない。ただ成績がいいだけだ」
 それから黙って、深沢は1本を吸い終え、吸殻を携帯用の灰皿にねじこみ、もう1本くわえて火をつける。威勢良く吐き出されていた紫煙が、急速にしおれていった。まるでため息でもつくように。
「恋愛の方程式に、答えはないねえ」
「……」
「もともと得意じゃないけど、好きだけどつきあえないってのは、どういうことなんだろうな」
「……どんな方程式にも、答えはある」
 深沢が太い眉をひそめた。
「ガウスってやつが発見した定理だ。n次方程式……自然数の方程式には、必ず解が存在する」
「それは数学の……」
「だがな、5次以上の方程式は、誰にも解くことができないんだ。答えがあるのは証明されてるんだ。でも、解けない」
「……」
「似てるな」

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