豪雨そして眠れぬ夜明け

秋月 ねづ

 今日は誰も客が来なかった。もう午前二時を回る。この雨じゃ仕方が無い。半地下の、この店の窓にも激しい雨が当たっている。磨りガラスにぼんやりと写るピンクのネオンが、窓の外が、滲んでいる。
 僕は天井のライトを一つだけ明るくしてカウンターの中で本を読んでいた。こんな日はたまにあって、読書するには丁度いい。消え入るように微かに聞こえるラジオの音楽と、酒瓶に反射する温かい光が、強い集中力を生んだ。普段読むのにはちょっと難しい作品がスラスラと頭に入ってくる。
 僕は本をカウンターに伏せて、もう無駄になるであろう、今日仕込んだ料理のことを考えた。昨日伸ばしたピザ生地はもう1日は平気だろう。カルパッチョ用の生魚は難しいところだ。今、オリーブオイルに漬けてしまえば、もしかしたら明日までは平気かもしれない。僕は膝元の冷蔵庫を少しだけ開けて、もう一度閉じた。
 まあ、なるようになるだろう。
 魚を処理する代わりに、僕はビールの小瓶を一本出して飲み始めた。これはいわゆる『上がり』というやつだ。もう今日はラストオーダーで、最初で最後の注文が僕のビールというわけだ。これを飲んだら、僕は雨の中外に出て『バドワイザー』と書いてある看板の電気を消して、中に仕舞って帰る。それで今日が終わる。
 僕は、一日には『終わり』をキッチリと作らないと新しい『明日』が来ない気がしていた。そして新しい明日というものを僕は常に待ち望んでいた。
 僕はビールの瓶をゴミ箱にガチャンと放り投げて、オーナーが忘れていった煙草を咥えて火をつけた。オーナーは僕が未成年だという理由で煙草を吸うのを許してはくれない。酒を飲んでも文句は言わないが、煙草だけは許してくれないのだ。だが、こんな退屈な日は煙草でも吸わないとやってられない。退屈なのを分かってて、自分はデートだとか言って帰ってしまった。今日オーナーはカウンターの中にすら入らなかった。
 僕は煙草を咥えながら、カウンターを回って出た。ドアを開けた途端激しい雨が吹き付けてきて、僕は一度、ドアを閉めた。僕はすべての行動を素早くやるためにドアに寄りかかって手順を考えた。
 ドアを開ける、階段を駆け上る、看板のコンセントを引く抜く、看板を抱えて階段を駆け下りる、ドアを開ける、ドアを閉める。よし! それでもグッショリ濡れるだろう。まあ、このベストも一週間着たから丁度洗濯する時期だ。
 僕は深呼吸して、ドアを開けて飛び出そうとすると、
 そこに人が居た。
「いらっしゃいませ」  僕は口から煙草を取って、そう言って二人の客を招き入れた。黄色いスーツを着た、どこからどう見ても水商売の女と、それに抱えられた中年の男性。その姿はまるで男が戦場で銃弾を受けて負傷したので、前線から逃げてきたといった風情だった。二人は傘を差していたにも関わらず、ずぶ濡れで、女が男を抱えながら豪雨と格闘してきたことは確実だった。女は男をスツールに投げるように座らせて、濡れた前髪を握って絞った。  僕はクローゼットからタオルを二枚出して、女に渡す。女は胡散臭そうに僕を睨んでから、タオルを受け取り、
「ありがと」
 とつまらなそうに言った。カウンターにうつぶせていた男はガバと起き上がって
「ハーパー。ロックで」といって、またうつぶせて寝てしまった。僕は女の顔を見ると、女は呆れたように目を閉じた。それから、
「私も同じものでいいわ」
 と言った。僕は冷凍庫から氷を出して、丁度ロックグラスに入る大きさの丸氷を二つ削った。それをコロンと二つのグラスに入れて、ウイスキーを注いだ。
「お待たせいたしました」
 女はグラスを掲げて
「まんまる。上手いものね」と言った。
 僕はニッコリとした。『良いバーテンダーは客の感想には薀蓄ではなく笑顔で対応するものだ』と『バーテンダー教本』に書いてある。一口飲んでから、女は男を一瞥した。男は寝息を立てている。僕は男からちょっと遠い位置にグラスを置いた。寝ている客は何故か、起きると同時にグラスを倒す習性がある。
「客なの」
 と女は男を顎でしゃくって言った。そしてバッグから煙草を取り出したが、それはパッケージフィルムの中に水が溜まるほど濡れていた。女は煙草をクシャと搾って、カウンターの上に水を滴らせた。僕は自分の手元にあった煙草を勧めた。女は何も言わずに一本取って吸い始めた。
「強い煙草」
 女はそう言い、僕はニッコリとした。
「私を指名してくれてね。沢山飲んでくれたのよ」と女は言う。
「邪険にも出来ないでしょ」
 女は言い訳をするように早口でそう言った。そして黙った。しばらく女は白いタオルで髪の毛や黄色いスーツを拭っていた。手持ち無沙汰な僕は静かにシンクで水を出して、既にキレイなグラスを洗いなおしていた。
「やんなっちゃう」
 と女は言う。僕は水を止めて手を拭う。
「こんな日はそと出たくないよね」女は僕に向かってそういい。僕は
「ええ。酷いですね今日は」と言った。女は首を振って、何も言わずに、さっき僕がカウンターの上に置いた煙草をもう一本取って吸い始めた。
「あなた若そうね」と女は赤い唇を尖らせて言った。そう言う女も二十代前半だろう。僕は頷いた。
「幾つ?」
「十八です」
 僕は二つほど多くサバを読んだ。ほんとは十六だ。ここでは十八で通ってる。別に給料を貰って働いてるという形ではないので構わないのかもしれないが、色々とメンドクサイのだ。僕が年齢を言うと女は興味深そうにした。
「十八ねえ」  女はそう言って、店を見回した。
「この店はじめて来た」  僕は頷いた。
「今後はごひいきに」  僕がそう言って頭を下げると、女は少し微笑んだ。

 僕が十六のくせにこの店で働いているのは、オーナーと従兄弟同士だからだ。僕には何故か、酒や料理を作る才能があって、それに目をつけた従兄弟に働かされてるのだ。給料は貰えないが、従兄弟の部屋に住まわせてもらえて、小遣いが貰える。表向きは家業を手伝う形になる。両親は親父が九州に赴任になり二人で行ってしまった。仕送りを貰ってるが使わずに銀行に溜まっていくので、あんまり悪くない状況だ。

 二人の客が帰り、雨が小降りになる明け方、僕は店を閉めた。これから帰って眠れたら少し眠る。そして学校に行く。1日のうちで授業中が一番眠れる。何故か明け方はあまり眠れないのだ。どういうことかは分からない。空が青白くなる朝は静か過ぎるのかもしれない。
 僕はボンヤリとした頭を抱えて登校する。クラスメイトたちは僕を酷く呆けた奴だと思ってる。学校に居る間はあんまり受け答えも上手く出来ないことが多い。人の話も良く聞けないのだ。午前中の体育が最悪だ。僕は酷く苦労してジャージに着替えて、友達の背中を見ながら歩いて校庭に向かった。そして途中、廊下で肩を掴まれて、立ち止まった。振り返ると、なかなかキレイな女子生徒が僕の腕を掴んだままニコニコと笑っている。僕は目の焦点を合わせるのに苦労しながら、よく見たが、誰だかちっとも分からない。その子は、僕のジャージの肩の名前の刺繍を見て、
「瀬田かあ。何だ二つも下じゃない。嘘つき」
 と言った。ウチの学校は名前の刺繍糸の色で学年が分かる。
「だれだっけ?」  僕が目を擦りながら、そう言うと、その子は僕の肩を強く叩いた。
「なによ。会ったばかりじゃない。客の顔も忘れたの?」  僕はまじまじと女の子の顔を見た。そういわれてみれば、昨日の水商売の黄色い子だ。
「化粧してなかったから分かんなかった」  僕がそう言うと、女は僕の髪を撫でて、周りを見回して僕の耳に口を寄せた。
「私、さつさ。内緒だからね。お互い」  そう言って、離れ際に僕の頬に軽く唇を当てて、手を振って去っていった。僕は暫く、頬を擦ってから校庭に降りたが、点呼に遅れた。

 校庭を走っていると、上のほうから声が聞こえた。
「瀬田〜」  見上げると、さつさが手を振っている。僕はニッコリと笑って会釈をした。後ろを走っていたクラスメイトが冷やかすように僕の背中を叩く。そんなに目立つことをされると迷惑だったが、仕方なかった。
 僕の持っている『バーテンダー教本』にはこう書いてある。『店の外でお客様を見かけたら、その人にだけ分かるように微笑んで会釈しましょう』

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