ドッペルゲンガー side:A

KENSEI

 誰にでも、幼いころの甘酸っぱい思い出くらいあるもので、いまはもう輪郭があいまいになり、面差しさえ失ってしまっているけれど、残された感覚だけはやけにリアルによみがえってくる。そんなことがある。
 子どものころ、おれの家のそばには公園があった。数年前に中央部分がならされて、砂を撒かれ、爺さん婆さんたち専用のゲートボール場になってしまったが、昔は丈の短い草が繁る、サッカーをするには格好の広場になっていた。片方のサイドのゴールはウンテイで、もう一方のゴールは見当。たいていは石を持ってきて目印にするのだが、ボールが通り過ぎるのは一瞬だから、際どい勝負のときには外だった中だったと、いつももめた。審判はいない。もめるのは当然で、主張するのが敵か味方しかいないから、すぐケンカになる。それでも次の日には平気な顔で集まって、サッカーをしていた。周辺の子どもたちが自転車に乗って、放課後公園へやってくる。小学校高学年になると、クラブに入ってしまうので、低学年が中心だ。そのころのおれたちは、学校もジャージで通っていて、そのまま遊びに突入していたので、何年だとか、どこの学区だとか、そんなこともわからずじまいだった。グーとパーでチームをわけて、ボールを暗くなるまで追った。
 ヒカルは、そのなかでも一番うまいやつだった。低学年でもうまいやつは、たいていはクラブに入ってしまうから不思議だったが、いつも同じチームになって、プレイした。前もって今日はグーを出すのかパーを出すのか、打ち合わせておくのだ。どうして仲良くなったのか、いまはもう覚えていない。ただ、視線を交わせば、ヒカルの感じてることはなんでもわかる、そんな気がしていた。
 ある日曜の朝。たしかあの日はヒカルと約束していたのだ。
 サッカーの練習かと思って、ジャージ姿でボールをドリブルしていった。すると公園には、女の子が一人いるだけで、ヒカルの姿がない。
 入り口のそばでリフティングしながらヒカルを待っていると、女の子が近寄ってきた。ちがう。こっちへ歩いてきたのは、スカートをはいたヒカルだった。おれは驚いて、ボールを妙な方向へ蹴ってしまった。
 ヒカルはいつものように笑って手を振ったりしないで、うつむき加減のまま黙っておれの前に立つ。胸になにかラッピングされた包みを抱えていた。混乱して、ヒカルがどんな表情をしていたかすら、記憶にない。
「……引っ越すんだ。サヨナラいいにきた」
「どこに……」
 ヒカルに立て続けに驚かされて、おれはそれだけつぶやくのがやっとだった。
「ウェールズって知ってる?」
「どこにあるの? ナゴヤより遠い?」
 祖父母が名古屋市に住んでいたので、おれにとって最も長距離の移動が名古屋への帰省だったのだ。あまりにもアホなガキだった。ヒカルは強く首をふった。
「外国」
「外国?」
 ヒカルはうなずく。そして、抱えていた包みを押しつけてきた。
「じゃあね」
 おれは受け取る。うなずく。うなずく以外にない。次の瞬間、ヒカルの髪がまつ毛をかすめた。瞳が目の前にあった。唇に熱いなにかが触れて、すぐに消えてしまった。
 ヒカルの走る後姿は、建物の角へ吸い込まれた。
 家に帰ってから包みを開けると、ジュニア用のストッキングベルトが入っていて、カードが添えてあった。

「たかゆきくんへ またいっしょにサッカーしようね
 くまのみどう ひかる」

 それからまもなくおれの家も、市内に家を建てて越すことになり、カードはどこかにいってしまった。ストッキングベルトに後押しされたように、おれはジュニアクラブに入って、本格的にサッカーを始めた。女子のサッカークラブはまだ少なかったから、ヒカルは草サッカーをしていたのかもしれない。ストッキングベルトもいつの間にか新しいものになり、ヒカルのことも忘れてしまった。
 なにかの拍子に思い出したときでさえ、すべて幻だったんじゃないか、と感じていた。ヒカルなんて女の子、あのあと誰に聞いても、確かなことは答えてもらえなかったからだ。
 でも、おれはあの唇の温かさを覚えていた。
 中学校も部活でサッカーを続けた。抜群にうまいわけではなかった。レギュラーにはなれたが、ただ学年の人数が11人より少なかっただけだ。だけど、高校でもサッカー部に入るつもりだ。入学式のあと、早速入部届けを出そうかと思っている。
 入学式が終わり、教室で担任が入ってくるのを待っている。クラスメイトに話しかけようかと思ったが、後ろに座ったヤツは早くも寝ているし、前に座っているヤツはひどく気難しそうな印象で、なんだか話が続きそうもない。女たちは、隣の列で、もう打ち解けて話し始めている。女の話に混じるのも面倒だ。おれは背後の席を見習い、机に半身を伏せて、目を閉じた。クラスの名簿は掲示板に貼り出されていたから、自分の名前の横の女子が不思議な、長い名であることを知っていた。
「ねえ、そうだよ、あの名字……なんて読むの?」
 耳に届いた声に、ふと意識を傾けた。そうだ。なんて読むんだ。“熊埜御堂”って。
「くまのみどう」
「くまのみどう?」
 おれは思わず飛び起き、声に出してしまった。そんな名前が日本にそう何軒もあるとは考えられなかった。熊埜御堂は余裕を感じさせる、上品な微笑をたたえ、おれを見る。
「くまのみどう、ひかるっていうの。よろしく」
 くまのみどうひかる……同姓同名なんて確率が、どれくらいあるのだろう。呆然と見つめるおれに唇の笑みを大きくしてみせて、前の席にいる女との話に戻っていく。長い髪。おとなしそうな笑い方。
 ……お前、あのヒカルなのか?

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