不忠な犬
凩 優司
■02■
「北澤、遅い」
「……お嬢さま、すみませんでした」
近づく俺の足音に振り返るのは、
眞鍋扶美――俺が仕える主の姿。
靴箱の前で彼女は俺を待っていた。
その隣にはクラスメイトの男。
男は名を和田と言い、話好きで、
歯に衣を着せない物言いが評判の生徒だった。
「……北澤か」
そう言って和田は俺に一瞥をくれる。
その視線にはクラスメイトとしての親しげな様子はなく、
一段低く見下した目で俺を見ていた。
「お嬢さま、ね。
お前は相変わらず、
そんな気持ち悪い関係を続けているんだな」
「……和田、お前には関係ない事だろう」
「まあな、だがひとこと言いたくもなるだろう。
同じクラスメイトとして、
そんな普通ではない呼び方をしている者を見かけたらな」
「……それは随分と親切な事で」
「まあな」
俺が口にした遠まわしな皮肉を、
和田は何事もないかのように受け流す。
そしてニヤリと人の悪い笑みを浮かべると、
俺に向かって言葉をかけてくる。
「俺は心配しているんだよ。
お前も、お前の父親と同じように、
破滅へ向かうんじゃないかってな」
「……父の事は関係ないだろう」
「へぇ、北澤。
お前でも怒る事があるらしいな」
「別に怒ってはいない。ただ……」
「ただ……何だ?」
「ただお前の発言を、
少し不躾に過ぎると感じているだけさ」
「……ふん」
気まずい沈黙が辺りに広がる。
そして、その沈黙を破ったのは扶美だった。
「行くわよ、北澤」
「あ、はい」
行って俺は扶美の後を追う。
和田は何も言わずに、
軽蔑した目を俺に向けていた。
俺はそれを無視した。
校舎から俺たちは足を踏み出す。
空には厚い雲が覆い、
まるで今にも雪が降りだしそうに見えた。
「……すいませんでした」
俺は前を歩いていく扶美に声をかける。
だが彼女は何も答えない。
ただ風の音だけが切り裂くように耳元で唸る。
指先が乾き、次第に感覚を失っていく。
「……何の話?」
俺の声が届かなかったのだと確信する頃、
振り返りもせずに扶美は尋ね返してきた。
「和田に言葉を返してしまった件ですよ。
いつもならば流せる程度の悪意だったのですが……」
そう、いつもならば和田など相手にもしない。
だが今日、彼は俺の父についてまで中傷した。
それが俺には、どうしても流す事が出来なかった。
言い訳にしかならないと知っているから、
口に出してまで弁解はしなかったが……
「……別に、気にする必要はないわ」
さも気のないように、扶美は言った。
「そんな事で、わざわざ弁解なんてしなくていい。
和田の事なんて思い出すだけ時間の無駄よ。
そんな事も解らないほど、
北澤は馬鹿ではなかったはずだけど?」
「時間の無駄……ですか?」
「そうよ、北澤はそう思わないの?」
「確かに、和田には問題があるとは思います。
個人的にも虫のすかない奴とも思います。
ですが……」
俺はクラスの中での和田の立ち位置を思い出す。
彼は決して嫌われ者ではない。
むしろ好かれている。
それは何故かと言えば……
「彼は毒舌家としてクラスで人気です。
彼は私のような孤立した人間に対して、
非常にずけずけと物を言います。
それを歯に衣を着せぬと感じ、
好感を持つ人間が多いからでしょう。
人間、自分に関わりのない人間に対する悪意には、
基本的に無頓着な物ですからね」
「……それで?」
不意に扶美は立ち止まると、俺に振り返る。
いつもは綺麗に切れ上がった二重の瞳、
それを三白眼のようにして、あきれたように俺を見ていた。
「……ですから、彼をそこまで罵る理由が解りません。
個人的な好き嫌いを抜きにして考えれば、
彼はむしろ強かな人間です。
彼から得る物もまたあると思いますが……」
俺の言葉を聞き、扶美は背を向ける。
そしてまた一人でスタスタと歩き始める。
俺は黙って彼女の後を追うと、
ため息を一つついてから、
彼女は淡々とした口調で呟いた。
「北澤、お前は本当に何も解ってはいないのね」
「……申し訳ありません」
扶美はもう、振り返りはしなかった。
だから俺には、彼女がどんな表情をしているのか、
その声からは推測する事が出来なかった。
「もういいわ。
和田の事も2度と口にしないでいい。
毒舌家なんて自称してごまかさないと、
人に対する意見や悪口を口に出せないような人間の事を、
北澤がこれ以上気にするのは禁止。
解った? 解ったなら、返事は?」
「……解りました、お嬢さま」
その時、一際強く風が俺たちの間を吹き抜ける。
だが扶美には、ちゃんと俺の声が届いているようだった。
「なら、いいわ……」
彼女はそう呟くとまた、足早に俺の前を歩いていく。
俺はその後を追い抜いてしまわぬように歩く。
そして俺たちはまた帰宅の途についた。
風は相変わらず切れるように冷たく、
空は次第にその暗さを増していく中を、
俺たちは何も言わずに歩いていった……
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