不忠な犬

凩 優司

■01■


「それで北澤、志望校は決まったのか?」

放課後の教室。
机の向こうの教師は、俺にそう尋ねてくる。
厚く重なった雲はまるで緞帳のように、
日を遮り、辺りを暗く澱ませていた。

「ええ、決まっています」

俺は迷う事なく答える。
そんな事は考えるまでもない事だった。
ストーブの上のケトルからは、
ゆっくりと蒸気が舞い、そして拡散している。

無駄な時間だ。
心の底からそう思う。
俺が何を望んでいるかなど、
そのような事は問わなくても解るだろうに。

「それは山和高校か? それとも他の……」

そう言って教師は、
幾つかの高校名を挙げていった。

それはいわゆる進学校と呼ばれる学校だった。
確かに今の俺の成績なら、
これから受験までの一年間でよほどの事がない限り、
入るのはそう難しい訳ではないだろうが……

「いいえ、違います」

俺はゆっくりと首を横に振る。
教師が口にした中に、
俺の志望校は入ってはいなかったから。

「それじゃあ、もしかして……」

そういって教師が口にしたのは、
確かに俺が進学を希望する高校だった。

「ええ、その通りですが。
 ……何か問題でも?」

「問題、って訳ではないが……」

教師は言いにくそうに言葉を止めると、
やがてゆっくりと尋ねてきた。

「それはやっぱり……、
 眞鍋のため、なのか……?」

「ええ、そうです。
 それ以外に理由などあるはずないでしょう?」

ためらわずに答える俺。
しかし教師は、
そんな俺にゆっくりと肩をすくめてみせた。

「しかし……それは勿体ないな。
 お前なら、もっと上の高校を目指せるのに……」

それから教師はもう一度「もったいない」と、
それがまるで口癖であるかのように繰り返した。

「なぁ北澤……」

「……なんですか?」

教師は目を細めて俺に問い掛けてくる。
おそらく優しく微笑みかけているつもりなのだろう。

だがその微笑みは偽りに見えた。
少なくとも作っているのは俺にでも解る。

「どうだ、考えなおす気はないか?
 お前だって自分の人生を歩んでみたいと思うだろう?」

「……自分の人生、ですか?」

「ああ、そうだ。誰だって、
 他人のために自分を犠牲にする必要はないんだぞ」

俺は答えなかった。
答えるまでもない問いのように思えた。

だが教師はそんな俺の態度を、
どうやら肯定にとってしまったようだった。

「なあ、北澤もそう思うだろ?」

同意を求めようとしたのだろう。
教師はわざわざ席を立ち、
俺の横に来ると肩を叩きながら、そう問いかける。

だから俺は顔を教師に向けると、
これ以上ない程に確固とした口調で言い返す。

「……いいえ、そうは思いません」

「……え?」

不思議そうに俺の顔を見返す教師。
彼にはきっと、
俺が何を考えているのか分からないのだろう。

だが別にそれはそれで構わなかった。
誰かの理解を得る、
そんな事のために俺は生きているのではない。

「自分の人生……そんな物は必要ないでしょう」

そう、そんな物は必要ない。

俺は彼女の犬であればいい。
それ以上の事を望みも、そして望まれもしない。

「俺の意見は伝えました。
 他に用事がないのでしたら、これで失礼します」

机の脇にかけた鞄。
それを手に取ると、
俺はおもむろに席を立ち歩き出す。

「あ、おいっ、北澤っ」

俺の背に呼びかけてくる声。
だが俺はその声が聞こえない振りをする。

横開きのドアが音もなく滑り、
そして乾いた音を立てて――閉じた。

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