台風を見に

KENSEI

「潤ちゃん、台風見に行こうか?」
 まだ小学生のころの話だ。親父が言った。よくわからないけどうなずくと、厳重に雨具で密閉され、車に乗せられて、波止場に出た。オレは後部座席に据えられたまま、水滴の流れる窓ガラス越し、横殴りの雨と風を受けて親父が海と向き合うのを眺めていた。雨が絶え間なく吹きつけてきて、またたくまに、親父の姿は抽象画みたいに滲んでしまう。オレはわずかに車窓を下げて、親父の様子をのぞいた。親父は両手の拳を振り上げて、跳んだり、突き出したり、夢中で雨と一緒に暴れていた。きっと同時になにかを叫んでいたのだ。いまは思う。
 家に戻ると、お袋の姿はきれいに消えていた。

 朝起き出すと、味噌汁のにおいがする。ワイシャツの袖をまくった親父が、飯と味噌汁と、芯が固まっていない玉子焼きを食卓に置く。オレが冷蔵庫から納豆とマヨネーズを出す。
「今日は面接?」
「ああ」
「決まる?」
「どうだか」
 親父がラジオのスイッチをひねると、気象情報が流れた。我が家は食事中テレビをつけない。気象情報は今夜半に台風が上陸する、と繰り返し放送していた。戦後最大級の台風で、これほど大きい威力の台風が直撃するのは10年ぶりのことだ……
「……台風」
 親父が記憶を呼び戻すみたいにつぶやく。ただのクセだった。
 それでもあの台風から10年たったのだ、と思い返せば、少しは感情を刺激したのかもしれないけれど。
「お前は、今日は?」
「オレは午後バイト。帰ってくるのは7時くらいかな」
 親父が首を小刻みに振る。残りの朝食を黙ってたいらげた。

 風の音が鋭くなったような気がして、店の裏にある空のケースに重石を載せに行った。アスファルトに立ち、空を見上げる。南の空に、厚い雲が積み重なっている。さっきまでまぶしい青が天球全面に広がっていたのに、灰色がわきあがってきている。
 日は西に傾いてやわらいでいるが、暑さは居座っていた。なにより湿気が異様に濃い。冷房の圏内から数歩出ただけで、もう額に汗が浮いている。蝉が切羽詰った鳴き方をしていた。もう夏も暮れるのだ。宿題の存在は脳裏の片隅にあるものの、手をつけるタイミングはなかなか訪れない。
 ビニール袋に外の水道で水を詰め、口をきつく縛る。入れる量さえ間違わなければ、こぼれることもない。思いついたように突風が吹いて、そこら中のケースが揺れながら大騒ぎする。興奮のあまりケースが路上に飛び出さないよう、ビニール袋をケースに入れていく。
 オレは駅の近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。普段は夕方だけなのだが、夏休みはどの時間も引き受けていた。帰省する大学生やフリーターの代わりに時間を埋めるのだ。小遣いと、学費くらいは、自分で稼いでいる。夏はかなり稼げたので、なにを買おうか予算を組んで想像してみたりしたが、親父の状況を考えると、貯金に励んでしまう堅実なオレであった。
 客も多くないので、レジはパートのおばちゃんに任せて、店の周囲の飛び出しそうなものを撤去することにした。のぼりを外して巻いていたら「神田くん」と呼びかけられ、振り向いたら、クラスメイトの秋元奈美だった。大きなトートバッグを肩にかけている。夏期講習かなにかの帰りだろうか。
「……本当に来たんだ」
「うん。なに。来たら迷惑?」
「物好きだなって思っただけ」
 ちょっと、いやかなり緊張してしまって、2本目ののぼりを取りはずすときが、乱暴で大袈裟になってしまった。秋元とはクラスでもよく話すほうだ。「働いているところが見てみたい」と言うので、アルバイトの予定を伝えておいたのだが、まさか本当にやってくるとは。予想外、期待以上の展開に、なんだかこれはスバラシイ“はじまり”かもしれないぞ、と勝手に解釈して舞い上がった。
「もうすぐ終わるから。ちょっと店のなかで待っててよ。せっかくだから」
「いいよ。すぐ帰るよ」
「あと10分くらいだからさ。送るよ。風強いし」
 ナニソレと秋元が笑って、台風だから、と言うと、会話にあわせたみたいに風が通り抜ける。秋元が少し真顔に戻った。3本目を片付ける間も逡巡していたみたいだったが、じゃあ、待ってる、と微笑む。
 オレは店内で立ち読みしている秋元を横目に、のぼりや立て看板を倉庫に運び込んだ。そうするうちに次の時間帯のアルバイトがやってきた。不思議なもので、交代要員がくるとレジが混む。突然並び始めたお客さんを次々消化しているうちに、10分近く終了時刻を過ぎてしまう。普段なら構わないが、秋元がいた。あわてて着替えて店へ回る。冷蔵庫から紅茶を2本とって会計をすると、ほかのバイトたちが意味ありげな笑みでオレを見ている。視線を振り切って秋元の元へ走る。
「ちゃんと働いてるんだねえ〜」
 秋元が大きく目を輝かせる。紅茶を差し出すと、ありがと、と言って受け取った。秋元は炭酸を飲むと涙が出るという特技の持ち主だ。紅茶が好物ということは聞いていた。オレが外を親指で示すと、脚の間に置いていたバッグを気合とともに持ち上げる。随分しっかりと荷物がしまわれているようだ。
 外へ出ると、夕日が黄金色に、地表に溜まった温気を染めていた。腕をぬるま湯のなかを進むような感触がなでる。昼間に比べれば気温は低くなったのだろうが、冷房で治まった汗が、早くも湧き出て脚にジーンズをからみつかせる。自転車は置いていくことにした。秋元は、ここから電車で15分ほどの町に住んでいる。紅茶を飲みながら、駅まで並んで歩く。夏をどうやってすごしたかを秋元に聞いてみる。
「この夏は、バイト三昧だったからなあ。秋元はどこか行った?」
「わたしだって部活ばっかりだったよ」
 秋元のことを思い出すと、人の話を聞いている姿が思い浮かぶ。なにか話しかけると微笑みながら、黒目がちの瞳を静かに向けてくる。オレは親父とのソーゼツな二人暮し体験(親父がワカメの味噌汁をつくろうとして「増えるワカメ」を鍋に放りこみ、蓋をあけた幼いオレをワカメが襲った話や、ホウレンソウを溶けて青汁になるまで煮た話など)で笑わせてきたが、秋元の笑みは、用意しているネタ以上に、話をしてしまう、磁力を秘めている。
 秋元は「話を聞くのが好き」と、なかなか自分自身を語ろうとはしない。それでも今日はクラスの藤代や和田と出かけた話が聞けた。結局コンビニのアルバイトについていろいろ問われて、会話はオレが話すばかりになってしまう。それでも秋元はアルバイトの話をすると喜んだから、話すオレも楽しかった。自分もやりたいのだが、両親が許してくれないのだという。
「でも神田くんは、そんなに気軽じゃないのにね。ゴメンね」
 秋元は言う。気にしたって仕方のないことなのだが。

 電車を降りると、暑さは一向に引かないのに、雲がせり上がり、大きさと、厚さを増していくのが見て取れた。急速に台風が接近しているのが理解できた。もっとゆっくりと過ごしたかったが。
 それでも成果はあった。バイトが休みの日に、英語のレポートを手伝ってくれることになったのだ。同情で勝ち取った約束だが、残り少ない夏の、かすかな思い出になるかもしれない。
 秋元の住むマンションは、駅から徒歩で10分ほどのところだった。瀟洒な建物で、なぜこんなマンションに住んでいる人が、県立なんかに通っているんだろうと、違和感を覚えた。いや、覚えたのは後日のことで、この時点ではそんなこと露ほども考えもしない。
 どこまで送ればいいんだろう、とぼんやりしているうちに、オートロック式の入り口に着いた。じゃあ、今度は図書館で、と手を振って立ち去ろうとしたら、「あの!」と裏返った大声がした。驚いて秋元を見る。おおよそ秋元らしくない振る舞いだった。
「あの、神田くん、ちょっと、あがっていかない?」
「え?」
「うん。せっかくだから。ちょっと待って」
 秋元はインターホン越しに、友人が来ていることを告げていた。なにかやり取りがあったみたいだけれど、オレには意味不明だった。
「今日、家の人は?」
「いるよ。パパも、ママも……」
 ああそうか。誰もいないとかそういう展開ではないんだ。急速に気持ちがしぼんでいく。もしかすると、秋元は夕食をごちそうしてくれるつもりなのかもしれない、親父との荒んだ食生活を熟知しているからだ。そう思い至ったら、なんだがうれしくなってきた。エレベーターで12階まで上昇し、豪華な内装の廊下を進む。
 頑丈そうなドアの前に立つと、秋元がノブをつかむ前に、ドアが内側から開く。秋元がノブを持って引っ張ると、
「奈美、男の子なんて、どうしたの?」
 たっぷりと幸せを載せたまま、オレもその笑顔が迎えてくれた。笑顔が凍りつくまで、“秒”の数値もいらなかったかもしれないが。
「お母さん……」
 と呼びかけたのはオレだった。
 母はまったく歳をとっていないように感じられた。あれから10年の月日が流れているというのに、記憶の中の母と違わぬ若さを感じさせた。そして打ちのめされた。母が若く美しいことが理由だと悟ると、愕然となった。
 オレと母は、息をするのも忘れて互いをじっと見つめていた。
 娘がクラスメイトを連れてきたと聞いたのか、秋元の父親らしき人が、玄関に現れた。
「どうしたんだ。早くあがってもらいなよ」
 低音で、優しげな声が響いた。秋元が、スイッチが入ったみたいに、いきなり喋りだす。
「神田くん。神田潤一くんだよ、ママ。パパも、知ってるでしょ」
 母が秋元の父親に耳打ちした。何度かうなずいて、秋元の父親はおおらかな調子で言った。
「夕食を一緒にどうです?」
 オレは母から目も、心も、逸らせずにいた。そのまま口が勝手に動いていた。
「ありがとうございます。でも……」
 母は緊張を解き、唇を微笑のカタチにとどめながら、目をかすかに細めて、笑っている。
「でも結構です。失礼します」
 オレは頭を下げて、踵を返した。なんで笑っているんだ。秋元が追ってきた。そのまま無視するのも子どもっぽい気がして、一緒にエレベーターに乗りこむ。
 秋元は、顔を伏せたまま佇んでいたが、そっとつぶやいた。
「気を悪くした?」
「秋元は……全部、知ってたんだな」
「うん」
「だから、か……」
「……」
 沈黙は肯定。

 自動ドアに衝突した風が、建物の骨格と組み合うような音を立てて、振動を撒き散らす。暗くなった空は唸りを上げている。
「ねえ、帰れる? パパに車で……」
「家には帰らないよ」
 オレは、秋元にうまく伝えられそうもなく苦笑した。
「台風を見に行きたいんだ」

 ネズミ色の空気が重くふるえ、やがて塊になって大地を薙ぐ。
 首に背後から、痛みを感じるほどの、大粒の雨が当たった。始まりは一発だったのに、狂ったような全開射撃が前触れもなく開始され、一斉に町が鳴り始めた。
 海はどっちにあるんだろう。オレは嵐の中をさまよいながら、あの日の波止場を思い浮かべていた。

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